お墓のかんのんや

祈りイベント

お念仏のある生活とは

天王山法城寺 石川乗願

アミダさまは命の根源

「ナムアミダブツ」というのは、我々が生き得ている、その命の根源と一つになる言葉です。
心臓は自分が動かすのではないが、動いています。手足も動くようになっているし、目も見え、頭も働いています。そういう風にして生き得ている、その命の根源を「アミダさま」といいます。私たちは普段「アミダさまのおかげ」が解らずに生活しています。ただ、自分勝手に生活していたのが、命の根源の「アミダさま」のおかげを悟って生活するようになると、勇気が百倍にもなるし、少々の災難もさほど気にならないようになるのです。だから、プラスは何倍にもふえて、マイナスは少なくなってきます。

有り難いという実感

普通なら、人に悪口を言われると困ったと思うし、落第するとどうしようか、仕事が続かなかったらどうしようなどと考えてしまいます。しかし、「アミダさまのおかげ」に触れると、悩み深いマイナスの想いが半分になってくる、三分の一になってくる。つまり、マイナスが小さくなってゆくのです。だれでも災難の起きない方がいいのですが、それが起こればマイナスはマイナスです。しかし、「ナムアミダブツ」「ナムアミダブツ」と命の根源に支えられていることに気づければ立ち直れるのです。
 私たちの手が動くというのもよく考えると、百万円もらうより有り難い事です。これは自分の力で動くのじゃなく、命の根源の「おかげ」で自然に動く手を私たちは頂いているのです。それが有難いのです。理屈じゃなく、実感が伴ってくるのです。
 自分は「アミダさま」のおかげで生きられているということに気がついて、そうすると「アミダさま」を拝むのは、自分を拝むことにもなるのです。同時に自分を拝むのは、「アミダさま」を拝むことになるのです。

この世のすべてを拝みたい気持ち

仏さまを拝むことが自分を拝むことになるとわかると、天地の命とつながって「大自然を生きる」という道が開けてくるのです。
 そういうことを「ナムアミダブツ」というのです。
 そしてプラス面が最大となるのです。
念仏をしていると、花を見てもその命に触れる事が出来るのです。花の命と自分の命が通じて、命が深まって感じられるのです。また山を眺めても、ただ、あれは「山」というだけではなく、山という大自然の命に通って、拝みたい気持になってくるのです。「アミダさま」を拝むということは、山でも花でもすべてを拝みたい気持が起こるということです。

寝ていても心臓は回っている

このような姿勢でお念仏をしていますと、そのお念仏の声が自分に聞こえることによって、自分が「アミダさま」になっていくわけなのです。
「アミダさま」は、我々の命の根源ですから、ナムアミダブツというのは「命の親さま」の懐に飛び込んだ音です。「命の親さま」というのは、不思議ですね。寝ていても、心臓は回っているのです。また、春には春の花が咲くように、夏には夏に咲く花がある、不思議ですね。そういうふうに、私ども一人ひとりが一人ひとりなりに生きられるようになっておるのです。大自然の命が自分に働いてくれるおかげで生きられているのですから、その命の根源へ帰る方向がつかないと、根拠を失い人生が終わりになるのです。

豊かな人生を全うする

人間の命の故郷は「アミダさま」です。「アミダさま」は自分の本当の大親さまで、そのお蔭で生かされているのですから、真先に速やかに「命の根源」へ帰らなくてはなりません。これは自分が自分になると言ってもいいのです。
これまでは自分が自分でなかったのです。自己が自己になる、そこにしか人生の本来の意味はないのです。外見の格好ばかりでなく「命の根源」に帰って、所謂生死を離れて、初めて生の根本も決まるのです。
「命の根源」から花も咲いているし、鳥も飛んでいる、雨も降っているのですから。そういうようにみんな、「命の根源」に帰って取り組むのです。大自然の命を自分なりに全うするのです。死ぬまでどういう事に出会うかわからないが、出会ういかなる事も自分なりに生かしきっていく。 尻餅をつかないで、日々極楽へ「行く」生き方をするのです。そうなってこそ豊かな人生を全うできるのではないでしょうか。

山本空外著『いのちのみのり』光明修養会出版 山本空外講述録『いのちの讃歌』無二会出版 参照

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